HOME > 武州一 武州と藍染め

日本で藍染めが庶民に普及したのは、江戸時代に入ってからと言われています。日本各地で藍染めが盛んに行なわれましたが、関東においては、ここ埼玉県羽生市近郊が糸染めの産地として発展していきました。

藍の染料ー蒅(すくも)ー

藍染の原料は、タデ科の植物の葉です。夏の開花前に収穫した葉を乾燥させ、さらに発酵させたものを蒅すくもといい、これが藍染の原液(藍液)の原料となります。蒅の製造は、乾燥した藍の葉を堆積し、灌水と切り替えしを1520回、57日ごとに繰り返し発酵させる手間のかかる作業です。完成までに約3ヶ月。野川染織工業では、今では希少となった国内・四国産の蒅を仕入れ、使用しています。

甕掻き(かめかき)3年ー天然発酵建てー

藍は水に溶けません。染色をするためには、この藍から染液をつくらなければなりません。これを建てると言います。武州一(野川染織工業)の伝統は、微生物を発生させ藍建てした藍液で糸を染めていること。
良好な状態の藍液を作るには毎日程よく攪拌させる必要があります。むやみやたらに掻いたら藍は弱ってしまいます。その勘どころが何より難しい。熟練を要する作業です。

白っぱたき3年

精練の前にすべての白糸を手でさばきます。白っぱたき3年。糸の状態が悪いと、それだけ藍の食い込みや均一性が損なわれます。一見簡単そうで実はこの作業も手を抜けません。年季と根気が要求されます。

武州の中でも生粋の伝統を守り続ける、唯一無二の奥義。

「武州一の藍は色合いも肌触りも他と違う」。そんなお客様の声をよくいただきます。その最大の要因は、機械化された数値ではなく、職人が染まり具合そのものを見極めながら、ひと綛ひと綛と真摯に向き合っているから。浸けるたびに変わりゆく色合いは、糸がまるで生きているようです。

武州の光と風が命を吹き込む

武州一独特の風合いと肌触りは、30回以上繰り返される染めの作業によって生まれます。そして最後に、太陽と風を受けての天日干し。つややかささえ感じる一本一本の糸が、このあと織られ、野川染織工業が誇るベテランの縫製師たちの手で、剣道着や袴へと姿を変えるのです。

藍染の効能

1.藍染めは糸を強くする

藍染めは糸を強くすると言われています。昔の火消し装束、よろい、かぶとの紐、剣道着、等に藍染めが用いられました。

2.体にやさしい

植物染料で化学的な材料などを一切使っていないので、皮膚によい。アトピーにも優しい。

3.薬効

・抗酸化作用
・冷え症などを防ぐ
・殺菌性があるので靴下、足袋などに使うと水虫、傷などに効果がある
・衣類や和紙などの防虫・防火効果
・消臭や保温効果
・鎮静剤/解熱/解毒としての薬効(歯痛や頭痛、魚中毒など腫れ物、虫さされ 、その他疾患等に効果がある

藍は、人類最古の染料です。

有史以前から人類は藍を使って染色をしてきました。 また、世界には多くの藍の種類があります。 日本でも幾種の藍植物が染色に用いられてきました。 その中で「日本の藍【Japan Blue】」として、その美しさや効用が世界に知られたのがタデ科の「蓼藍」です。

武士の色から日本の色へ

鎌倉時代には、武士が一番濃い藍染を「かちいろ(勝色)」と呼び、戦勝の縁起かつぎに多用しました。そのため藍染は、武士の色として一段と広まり、室町時代には庶民に至るまで日本人の衣類や生活財を彩る最もポピュラーな色になりました。
ラフカデオ・ハーン(小泉八雲)が日本を「藍の国」と表現し、化学教師として来日したイギリス人教師・アトキンソンが、日本の藍を「ジャパンブルー」と称したのは有名な話。あの徳川家康も藍色の辻が花染めの小袖を愛用していたと言われています。

愛染明王

 熊谷市にある「愛染明王(あいぜんみょうおう)」は「愛染さま、愛染さま」と地元で呼ばれ、昔から親しまれていた仏閣のひとつ。 江戸時代から明治の末までは、この愛染明王を毎年1月26日に参拝する儀式がありました。 その中心にいたのは、江戸の染めもの屋や、藍問屋、藍染屋、藍の栽培農家、藍染を織る人たち。当地・武州はそれぐらい、深く藍染め文化が根付いたお国柄だったのです。

渋沢栄一(1840-1931)

 かの渋沢栄一も武州の藍染とゆかりの深い人物の一人です。彼は実家の主業でもあった深谷名産の藍玉(染色原料)の売買を手伝い、少年期から大人顔負けの商才を発揮。大きな利益を上げると同時に、「論語と算盤」を唱え、日本資本主義の父として明治の日本を牽引していったのです。

田山花袋の「田舎教師」

 「四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった」。これは明治の文豪、田山花袋の「田舎教師」の冒頭の一説です。明治34年(1901年)に羽生の小学校の代用教員として採用され、明治37年に病を得て死ぬ迄の約3年半の生活を描いた小説です。 当時、武州特産の青縞は羽生にとって代表的な地場産業で、この染め上げられた青縞は武州藍として全国に知られていました。

青縞(あおじま)の生産は、羽生、加須、行田が中心

 青縞は、江戸時代後期 (天明年間)に騎西周辺の農家の副業として始まった藍染めの綿織物です。糸を染めた後布に織り上げるため、糸の染めむらによって縞柄のように見えることからこう呼ばれています。青縞の生産は、北埼玉地方の羽生、加須、行田が中心で、野良着をはじめ、足袋の表地などにも用いられてきました。農業の機械化に伴い需要が激減し、現在は数軒で技術を伝えるのみとなっています。

100年の伝統を守る野川家

 埼玉県北部において、伝統の技を今も受け継ぐ数少ない紺屋のひとつが、野川染織工業です。1914年、現・代表の曾祖父が「喜之助紺屋」を創業したのがその起源。今日までおよそ一世紀・4代にわたって武州正藍染を守り続けています。そんな中、武州一が産声を上げたのは、昭和40年代の半ばのこと。一着一着を丹誠込めて作る想いは、当時となんら変わりません。